この一年の大きな変化といったらやはり、父が末期ガンで亡くなったこと、その死に目に会えなかったこと、そして施設に入居する母に会えなくなったこと。
要介護3、認知症もかなり進んでいた父は、2019年末、武漢で不可思議な肺炎が流行し始めているらしいと噂になった頃、ガクリと体調を崩しました。前立腺癌が骨浸潤しており、1月下旬に緩和ケア病棟へ転院。
1日置きに会いに行っていたのが、2月中旬には面会禁止となり、3月下旬に危篤状態に。いつ亡くなるか予断を許さない状況だったので辛うじて面会を許されるも、看護師さんたちはキリキリしていて5分の面会も無言の圧力の中。
キリキリ感やトゲトゲの圧力も当然だけれど、こちらだって必死。しかも面会許してるのは病院側だよ?
それでもあからさまな迷惑なんだよオーラ&圧力に負けて、3/30に行った後、遠慮していました。
熱も下がって目が覚めている時間が増えていたし、一言二言なら会話出来てもいたので、大丈夫かなと思ったのです。
それに、コロナ禍がいよいよ広がり、初めての緊急事態宣言が近々出る出ないと世間は緊迫した状態にありました。
その空気の中、末期ガンの患者さんが入院する緩和ケア病棟に面会に行くのは憚れました。
消毒、検温、チェック表を全てクリアしているけれど、もし、わたしがウイルスを持ち込んでしまったら。想像すると背筋が凍ります。何と言っても父もそうですが、重症患者さんばかり。
いつ会いに行こうどうしようと迷っているうちに、その日が。
父は4月8日の花祭りの日に逝きました。
折しも緊急事態宣言が発令された日。私たち家族は死に目には間に合わず、看取ることは出来ませんでした。
幸いにも担当の看護師さんがずっと付いていてくれ看取ってくれたのが、本当にありがたかった。父はひとりぼっちで逝ったんじゃない。家族じゃないけれど、寄り添ってくれた人がいた。
コロナ禍じゃなければ。
通夜も葬儀も親族だけでひっそりと。この頃は焼き場にも親族で行くことが出来ました。今は限られた家族だけしか行けないそう。
思えば、コロナに罹患せず、コロナ禍の世の中を知らずひっそりと逝けたのは、父にとって良かったのかもしれません。
この疫病は人と人とのふれあいを無情にも引き裂いていきます。
母も車椅子なしでは生活出来ない要介護3、認知症も進み、施設に入居していますが、昨年の2月下旬から面会禁止になりました。
認知症が進んでからは、隣にいても父を『自分の夫』と認識出来なかったり、わたしを妹だと思ったり、『わたしはいつからひとりぼっちなの?』と涙を浮かべて聞いてきたりしていたので、会えないのはとても不安でした。
母が、自分は世界にひとりぼっちだと思い込んでしまわないか。誰にも大切にされていないと、必要とされていないと思い込んでいるんじゃないか。
父が遺体となって、帰りたいと切望していた自宅に戻って来た時、施設に交渉して母の外出許可を取り、ようやく母に会うことが出来ました。
父に会わせる前に説明しようと家族で母を囲み、兄が『話があるんだけど』と切り出したとき、涙を浮かべ悲壮な表情で、母が絞り出すように切ない声で言った言葉が忘れられません。
『いちゃあいけない人がいるんでしょう?』
ここに居てはいけない人がいる、それは自分なんじゃないか、それを宣告されるのではないか。母はそう思い込んでいたようなのです。
施設には様々な入居者がいて、キツイ物言いのスタッフの方もいます。
コロナ禍で、気をつけなくてはいけないことが山ほどあり、入居者もスタッフも疲弊しているんじゃないか。そんな雰囲気の中で、母はいたたまれない気持ちでいるんじゃないか。
かと言って、情け無いことですが、自宅に引き取ることは出来ないのです。
会えたこの時を大事に大切に過ごして、母は一人じゃ無いこと、ここにいて欲しい人であること、必要とされていること、待っている家族がいることを感じ取ってもらえるように気をつけました。
父の葬儀や新盆には感染症対策をしっかりと行なった上で(それでも施設側は渋々ですが)外出させてくれ、家族全員で母を迎えました。初ひ孫も抱いてもらえました。
もしかしたら、父からの渾身のギフトだったのかも知れません。
母に実際に会えたのは、新盆の8月が最後。その施設は構造上、ドア越しとかガラス越しに対面ということも出来ません。毎月届く施設からのお知らせから、母が元気だということを推し量ることしか出来ません。
お正月の外出も当然出来ず、がっかりしていたところ、施設がやっとオンライン面会を導入してくれました。
分かっているのかいないのか、定かではありませんが
それでも母の元気そうな様子が見て取れるので家族としては安心出来ます。
けれど画面越しに会うたびに、やっぱり直接会いたいと思う
オンライン面会が終わると、毎回ボー然としてしまう私です。